2016年6月25日土曜日

逆算的リアリズムからの生活保障

『生活経済政策』という月刊誌の本年7月号に掲載される予定の文章の草稿です。


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逆算的リアリズムからの生活保障

猪飼周平

1. 逆算的リアリズムと生活問題の構図

J.M.ケインズは、かつて「わが孫たちの経済的可能性」と題する講演をしたことがある。そこでケインズは、経済問題は人類の永遠の問題ではなく、「わが孫たち」の生きる100年後には、経済問題一般が解決するか、少なくとも解決が視野に入っているだろうという見通しを述べた。大学院生時分この講演録に接した際、1930年すなわち世界恐慌が始まった翌年にこの講演が行われたという事実に驚くとともに、そもそも経済問題一般が解決した社会の姿をイメージしつつ経済学を構想していたことに、ケインズの偉大さを実感したことをよく記憶している。

もちろん、2030年にケインズのいうような社会が実現すると考えている人は、当時はもちろん、今日でもほとんどいないだろう。その意味では、ケインズの見通しは予言としては当たらないことになるであろうが、筆者に言わせれば、見通しの当否の類は大して重要ではない。むしろ、重要なのは、経済学が達成すべき究極の状態への展望から、具体的な政策やそのための理論を逆算的に導出しようとする観点—これを「逆算的リアリズム」といっておこう—をもつことが、展望のないただのリアリズムに飲み込まれないために必要であるということである。またそれこそが、世界中が恐慌に巻き込まれてゆく最中にあって、ケインズが一番言いたかったことであるようにも思われる。ケインズの『一般理論』は、当時の新古典派経済学の経済に関する捉え方からかけ離れたところから論理構築されているが、そのようなことが可能であったのは、ケインズがこの逆算的思考を基礎においていたからではないか、筆者はそのように思っているのである。

さて、筆者が前置きとしてケインズについて述べたのは、本稿で、生活問題を逆算的リアリズムの観点から捉え直してみようと考えているからである。先進各国が生活問題を政策による支援対象=社会保障の対象とみなすようになったのは、基本的には戦後のことである。ベヴァリッジ報告を社会保障の実質的な出発点とみなす通説的な理解によれば、それは、戦前までに発達した諸制度をパッケージして、最低水準の生活(主に経済生活についてだが)を国民に保障しようとする野心をもって戦後スタートした。社会保障およびその実施に責任をもつ国家=福祉国家は、幾多の批判や危機を乗り越え、今日でも「国民生活の安定」を支える根幹的存在であるとみなされている。

ところが、一度逆算的リアリズムの観点からみるとき、このような社会保障およびその拡充によって行う生活支援には明確な限界があることがわかってくる。すなわち、社会保障の限界は、おそらくは生活問題一般に対処するために必要な条件とは何か、という問題意識を持つことなく、目前に可視化された生活問題に対応することで満足しようとしている社会保障政策の現状によって画されていることがわかってくるのである。そしてそれは、世界恐慌の中で、長期的にみれば我々の世界が持続的に経済成長をし続けているという事実に目を向けることができないまま、足許の現実から悲観のみを引き出した当時の経済政策の現状と大きくは違わないのではないか。

とするなら、ケインズに倣って、生活問題一般を相手にすることができる社会保障—本稿ではこれを「生活保障」と呼んでおこう—の条件から、今日の社会保障のあり方を再検証することは決して無駄ではあるまい。そこで、以下では、ごく限られた紙幅ではあるが、そのような観点から、生活問題一般と社会保障との間のギャップとは何か、それを埋めるために何が必要かを考えてみたい。


2.生活保障の定義

もっとも、生活問題というだけではその意味内容が茫漠としているので、立ち入った考察を始めるまえに、生活問題のその中身を少し明確にしておく必要がある。ここでは操作的な観点から、生活問題を、当事者が独力で対処することができない生活上の困難を意味することにしよう。このとき、ケインズのいう経済問題は生活問題の一部を構成するが、経済問題が解消すればそれで生活問題が解決するわけではない。第1に、個人の経済問題は多くの場合、経済外的な様々な要因と結びつきあってひとまとまりの生活問題を構成しているので、経済問題の部分のみ解決したとしても生活問題自体が解決しない。第2に、仮に経済的問題が全く存在しない条件においても、家族関係・友人関関係・コミュニティ関係その他社会関係に関する問題、差別に関する問題、アイデンティティに関する問題、病気や障害に関する問題、自殺に関する問題、犯罪に関する問題などは原理的になくならない。したがって、生活問題一般の解決とは、経済問題の解消のさらに先にあるということになる。

さらに、生活問題の本態は、個々の生活上の要素や問題よりもその組み合わさった生活問題のあたかも生態系のように複雑な構図(エコシステム)の方にある。生活問題の「解決」は、必ずしも個別の問題の「解消」を意味しない。生活支援の現場にいるソーシャルワーカーたちが証言するように、多くの場合、本人をめぐる生態系のような諸要素の複雑な連関の構造を別の構造へと変化させることによって、生活問題の当事者がその問題を独力で取り扱えるようになることが着地点であり、あえていえば「解決」なのである。しかもその「解決」の形は試行錯誤の中で見出されるものであり、そこで発見されたある「解決」が一番よい「解決」であるかどうかはわからない。そしてなにより「解決」という状態自体が見つからないこともしばしばである。

その意味では、生活問題は経済問題と違って一般的な解決=問題状況の消滅は原理的にできないとみなさなければならない。したがって、逆算的リアリズムの出発点となる状態を生活問題一般が解決した状態とするのは経済問題一般の解決した状態(桃源郷)と違って具体的な意味内容をもたない。そこで、ここでは生活問題を抱える全ての当事者に対して、その生活問題のあり方に即した支援がともかくも届いている状態(生活上の困難を抱えているすべての人が放置されない社会)ということを、生活問題一般に社会が対応している状態とみなすことにしよう。そして本稿では、この状態を生活保障が実現している状態とみなすことにしよう。


3. 社会保障の限界

さて、本稿の意味における生活保障について、従来、国家はどのように関与してきたのだろうか。いうまでもなく今日この領域でもっとも大きな役割を果たしているのは社会保障である。よく知られているように、日本を含め先進諸国の多くでは、社会保障制度を整備することを通じて「国民生活の安定」を目指してきた。だが、社会保障はそれ自体が、実のところ生活保障からみれば程遠いものであるということをまず確認しておかなければならない。

そもそもベヴァリッジ報告で基軸となった考え方は、最低生活水準(ナショナルミニマム)を国民全体に保障する一方で、最低生活水準を超えた部分に関しては、自由な活動を妨げないように、なるべく国家の介入を控えようとするものだった。だが、現実の社会保障がそのような理念に基づいて制度化され、また運用されたかといえばそうではない。

ここで国際比較を踏まえて緻密な議論をする紙幅がないので、日本に限定して論ずるが、まず社会保障は、最低生活水準以下の暮らしをする人びとの多くに対して、最低生活水準の生活を普遍的に保障していない。最低生活保障を謳った憲法第25条が、プログラム規定的性格をもつもの(正確には抽象的権利説)として解釈されており、事実上底が抜けていることはよく知られていることだが、運用としても、生活保護の捕捉率が10-20 %とみられていることから明らかなように、最低生活の普遍的な保障は、あくまで建前のものとなっている。その意味では、最低生活水準以下の水準で暮らす人びとに対して、社会保障には「果たされない約束の領域」が広範に存在しているということになる。

また、最低生活水準以上についても、基本的には社会保険を軸とする経済生活の破綻のリスクを軽減することを通じて、貧困を予防する「防貧」的政策をその守備範囲とする一方で、それ以外の様々な生活上の問題については介入を差し控えてきたといえる。

その結果として、最低生活水準を保障することを主要な機能とするベヴァリッジ的な社会保障とも、生活問題一般に対応しようとする生活保障とも異なる領域に、現実の社会保障は定着したのである(図1)。

図1


ではなぜ社会保障は、このような姿になったのだろうか。この点については、社会保障論の領域においても、社会保障法の領域においても、明確な合意はない。むしろ性格を異にする諸制度の集合体であることを追認するような論理構築がなされているのが通説的であろう。だが、社会保障を生活問題一般の中における位置づけを考えるとその論理がよく見えてくるように思われる。

社会保障の支援方法は、さしあたり次の3つの特徴を含んでいる。第1に、富や所得の再分配を基軸としていることである。これは社会保障の主な標的が経済問題にあることを意味している。第2に、社会問題として抽出された問題別の解決を指向している点である。これは生活問題を抱えた人単位でなく、同じ問題を抱えた集団を政策の対象としているということである。第3に、施策の効果を統計的な観点から見ていることである。

実のところ、この3つの特徴を貫くのは、効率の観点である。第1と第2の特徴は、個々別々にみれば多様で複雑な内容をもっている生活問題を、カネの問題やその他の単純な問題に単純化して解釈し、さらに可能なかぎり単純で大勢の人を一挙に相手にできるような支援方法を指向していることを意味している。また第3は、第1と第2のような単純化を正当化する論理として、単純な方法で対応できないものは、支援効率が悪いものなので対応しなくてよいという功利主義的な立場に立っていることを意味する。問題を単純に把握して、単純な解決策を出し、取りこぼしは許容する、これこそが社会保障が理念はともあれ方法として採用してきた効率の論理にほかならないのである。

ということは、詰まるところ社会保障とは、その理念や権利性に従って形成されたというよりも、マスに対する生活支援として統計的・集団的に結果が出やすいところを虫食いにした結果として形成された支援領域ということになるのである。そして、結果として、図1の概念図が示すように、私たちの生活問題には、いまだ社会保障的な効率の論理では包含することのできない広大な領域が残されているのである。


4. 残された領域の生活問題
 
1970年代以降、生活問題の幅広い領域で緩やかではあるが確実に進行してきた変化がある。それが、生活問題は個別的で複雑な性格をもっているという認識の広がりである。このような生活問題認識を代表する概念が「社会的排除」である。

従来の社会保障は、たとえば「貧困」を「お金がない」「仕事がない」という意味に単純化し、現金給付や雇用創出という策で対応しようとしてきた。だが、貧困の要因の中にたとえばアルコール依存が関与している人に、やみくもに「お金」や「仕事」を提供しても状況が改善しないことはいうまでもない。当事者がどのような本人と環境の複雑な相互作用の中で困窮しているか、そのなかに飲酒がどのように関わっているのかを把握することなしに、当事者の状況を改善することはできない。社会的排除概念は、まさにこのような生活問題が複雑性・個別性を有しているという認識を主要部分として含む概念なのである。

実は、このような支援観の変化は、従来の社会保障にとって手の届かなかった、支援効率の相対的に低いとみなされてきた領域に対して支援しようとすればいかなるタイプの支援が必要であるかを示している、と同時に現代社会が挑むべき生活問題のフロンティアがそこにあるということを示しているといえる。

生活問題一般のうち社会保障が対応できなかった領域、すなわち、「果たされなかった約束の領域」にいる人びと、最低生活水準以上の生活水準にありながら生活に困難を抱えている人びとのいずれの場合も、支援するには、上記の複雑性・個別性に正面から立ち向かう必要がある。

一例をあげよう。図2は、自殺対策支援センターライフリンクが2008年に実施した調査の結果を図示したものである。調査によれば、既遂者について、自殺に至った要因は少なくとも70以上あり、平均して1人あたり4要因が複合的に影響していたという。これらには経済的な要素もあれば非経済的要素も含まれている。しかも、自殺の個別的要因については、大体のものについて何らかの支援窓口などがすでに存在していた。つまり、既遂者の多くが、行政などが設置した相談窓口の網の目をすり抜けて亡くなっていたということなのである。このことは、自殺問題が、従来の社会保障的なアプローチである、自殺に影響をおよぼしている個別の要因を取り出してそれに一律的に対応するやり方では対応できないこと、問題の本質が個別の問題の複合的構造それ自体にあることを示している。

しかも、当事者が自殺しないことは究極のゴールとはいえない。というのも、自殺が生きることの苦しみの果てに起きるのだとすれば、自殺させないようにするだけでは「生き地獄」を当事者に味わわせることにもなりかねないからである。したがって、当事者を支援する際に何を着地点とすべきかを「自殺しなければよい」のように一律に決めることはできないのである。
図2


出所:自殺対策支援センターライフリンク『自殺実態白書2008』


5.社会保障から生活保障に向かうために

本稿でいう生活保障の実現は、社会保障の延長線上に実現することはできない。仮に社会保障的方法で対象を拡張しても、単純化することのできない問題を単純に解決しようとすることによる弊害が起きるばかりで、本質的な支援にならないであろう。

もちろん、筆者は、社会保障それ自体が無意味などといっているのではない。それは今でも生活問題に立ち向かう根幹となるものである。そしてなにより、社会保障の出発点となったベヴァリッジ報告自体がまさにケインズその人の影響を強く受けていたことからもわかるように、本来社会保障は生活問題一般の解決を指向していたはずである。だが、今日の社会保障論議は、そのほとんどが生活保障を実現する見込みのない方法に固執しているといわざるをえないのである。そこには、私たちは何を目指して生活問題への対応を構想すべきなのか、そのために何をすべきなのか、という逆算的思考が決定的に欠如している。

では、具体的に何をすればよいのだろうか(もちろんこれがなければリアリズムにならない)。実は幸運なことに、「残された領域」の問題に対応する支援方法を新しく開発する必要はない。というのもソーシャルワークがそれだからである。ソーシャルワークは、生活問題が単純なゴールの見えない複雑な事象であることを認めた上で、当事者の生活を支えるべく寄り添う/伴走する支援方法である。したがってソーシャルワークによる支援の成立要件などの面倒な話を省けば、要はこのソーシャルワーク的支援が生活に困難を抱えるあらゆる人びとに届くようにすればよいのである。

日本では職業ソーシャルワーカーといえば、社会福祉士を思い浮かべる人が多いだろうが、彼らのような一握りの専門職だけで社会全体にソーシャルワークの網の目をかけることは現実的ではないし、費用的にも合わないであろう。むしろ、対人サービスに関わるあらゆる職種がソーシャルワークの能力を身につけること、さらには、全ての社会の成員がソーシャルワークの基本的素養を習得するように支援すること、そのようなソーシャルワークの網の目の構築に、市民社会、行政組織、法体系、そして社会保障を適応させることである。日本のようにソーシャルワークの社会的認知の低い社会にとっては、多少ハードルが高い社会目標ではあるかもしれない。だが、これが私たちの生活問題一般に対応した生活保障実現に必須の条件なのである。
 

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