2016年3月7日月曜日

生存権と平和をつなぐもの

鉄道弘済会の『社会福祉研究』の編集委員をしている関係で、時々「巻頭言」の執筆が回ってきます。次の文章は、次号第126号のために用意した草稿です(2016年7月刊行予定)。

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【巻頭言】生存権と平和をつなぐもの(草稿)

以下は、社会福祉職を目指す大学生大澤茉美の文章である。
「ある女の子は、奨学金の返済に追われ、おなかの子どもを堕ろした。シングルマザーでは今の世の中をとても生きていけないと、一緒に制度を調べ、パソコンの画面の前で泣いた。・・・彼女が生みたかった子どもは、もう死んだ。たった一人の子を産み育てることを許さなかった政治が、いま安全保障関連法案を成立させようとしている。すでに数え切れないほどの命を見殺しにしてきた政権が、「安全」を「保障」すると謳う法案に無邪気に賛成できるほど、私をとりまく世界はすでに安全ではない」(『現代思想』2015年10月臨時増刊号)。

昨年8月、「戦後70年目の8月15日によせて」と題する社会福祉系学会会長の共同声明が出されたことはご記憶だろうか。安保関連法案に対して危惧を表明するものであったが、私はどこか言いたりないことがあるように感じていた。というのも、声明が「危惧」として表明していたことは、煎じ詰めれば、戦争になれば社会福祉が脅かされるという自明の事柄だったからである。私たちがあのとき社会や国家に訴えたかったこととは、そういうことをだったのだろうか。

→共同声明
http://www.jaass.jp/archives/831

思うに、戦後70年間を通じて、日本の社会福祉が感得してきたもの、その最も重要なものは、一人一人の日々の暮らしのかけがえのなさではなかったか。だからこそ、私たちは、人びとの暮らしを支えようとしてきたのではなかったか。とするなら、私たちが言いそびれたこととは、もしかすると、人びとの命や暮らしがいかに重いかということであり、私たちがすべての政治家に問うべきだったこととは、この命や暮らしの重さをよくよく踏まえたうえで、法案の審議に向かっているのか、ということではなかっただろうか。

私のような国際関係論の素人には、法案が成立したことによって安全保障にどのような影響があるのかわからない。だが、そんな私にも明瞭なこともあるように思う。それは一人一人の命や暮らしの重みを知ることではじめて、私たちは戦争の手前で踏みとどまることができる、ということであり、それを知らない政治家がいるとすれば、彼らに平和を語る資格はない、ということである。


このことを、社会や国家に不断に発信してゆくこと、それは社会福祉に関わる者にこそできることであると同時に、昨年来の宿題として持ち越されてきたことでもあるように、私には思われる。

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