2010年10月12日火曜日

研究会とつまみ食い

今回は、研究会等で私が本当に危うさを感じる参加者の態度の1つについて述べようと思います。なお、ここでいう対象の参加者とは、研究者、研究者志望の学生を指しています(内容からお分かりになると思いますが実務家は含まれません)。

学会レベルでも大学院・学部のゼミレベルでも、報告者が自分の研究を報告し、それに対し参加者がコメントしたり、それをめぐって議論したりすることを想定した研究会というものが頻繁に開かれています。そのような研究会では、自分の研究に役立ちそうなことについての知識や情報をつまみ食いして帰ろうとする参加者の姿が散見されます(以下「つまみ食い者」と表記)。

彼らは、報告者の研究の中核部分について言及する代わりに、自分の問題意識からみて有用でも、報告者にとっては周縁的な知識や情報について質問します。「興味深いお話ありがとうございました。ところで~~についてお考えがあれば教えて下さい」式の質問をする人がその典型です。これは、その人が、研究会を自分の研究に役立ちそうな知識や情報をつまんで帰る場であると思っているということの表れです。

私が彼らのようなつまみ食い者に危うさを感じるのは、彼らが研究会に貢献していないということでも、彼らがエゴイストであるということでもありません。問題なのは、彼らがエゴイストとして採るべき態度を間違えているか、彼らがエゴイストとして合理的な態度がつまみ食いに帰着するような研究外的理由をもっているかのどちらかであるということです。

私の知識が社会科学に限定されているという前置きをした上で申しますと、研究で一番難しいのが、問題意識と研究(作業としての)の深化のサイクルに取り付くことであるといえます。うまくゆく場合、問題意識は研究が進展するにつれ深化してゆきます。そして問題意識が深化することで、次に行うべき研究の方向が示されます。その意味で問題意識と研究を往復させながら両者を成長させてゆくのが研究(全プロセスを含む)だといえます。

さて、研究の過程で頻繁に起こりかつ最も深刻な問題と引き起こすのが、ある問題意識の下ではこれ以上研究が進まないという状況です。得られる帰結がつまらなかったり自明のもののように感じられるという問題意識の意義に関わる壁もあれば、現在の問題意識では資料を集めることが難しいという物理的な壁である場合もあります。問題意識が実証性を失う方向に進んでいるというような場合もあります。いずれにせよ、このような状況において必要なことは、これまでのサイクルで形成した研究の継続性を損なわないようにしながら、壁を打ち破る問題意識を再構築することです。その意味で、学者にとってもっとも重要な訓練は、問題意識を自在に構築・調整する能力の形成であるということになります。

この観点からみると、研究会では、報告者の研究の中核を構成する問いをどのように改善すれば研究がもっと良くなるかを考えることを通じて、研究会をエクササイズの場として活用することが最もエゴイストとして合理的であるということになります。特に他人の研究については、自分の研究を縛りがちな自分の道徳心や義務感から自由になって眺めることができますので、自分の研究を反省する以上によい練習になる場合もあります。

これに対し、つまみ食い者の態度には、自分の研究について固定化された問題意識があって、それとの関係で情報を取捨選択しようとしていることがみてとれます。少なくとも、上のような訓練に参加していません。自分の問題意識が研究上の困難を引き起こすという状況が頻繁におこるかというを認識していないか、軽視している可能性が高いといえます。

問題意識の形成力がないと、問題意識を他者による評価に委ねることになり、結局のところ現在流行っている課題に取り組むことにならざるを得ません。ただ、そのような流行の課題は移ろいますので、研究者も流行の課題を追って研究テーマを動かして行かざるを得ず、気がついてみると継続性を欠いた研究をする羽目に陥る危険がきわめて高くなります。

このような流行のフォロワーとしての立場は、本人にとっても大変苦しいだろうと思いますが、それだけではありません。継続性を欠く研究には、もっと大きな問題があります。それは、研究のオリジナリティの最大の源泉を活用できないところにあります。あまり広く合意されていないとは思いますが、私は、継続性こそが研究のオリジナリティの最も普遍的な源泉だと確信しています。長い時間をかけて徹底的に行われた研究は、気がつくと誰も真似できない地点に到達します。このタイプのオリジナリティの生み出し方は、自然な思考を積み上げて知識の高みに到達しようとする社会科学の基本戦略に叶っている点で自然なオリジナリティ戦略である(2010年5月3日投稿「恐竜の内輪差と社会科学」参照)だけでなく、基本的に剽窃できないという利点もあります(他者の知見を借用しようとする研究者には、そのことを真剣に考えている研究者ほど、徹底的に研究しようとする覚悟を形成することはできないため)。

総じて、問題意識と研究(作業としての)のサイクルをしっかり回し続けることで、研究にはオリジナリティが生まれ、また研究テーマの剽窃からも守られます。そしてこのサイクルを回すためには、研究会における訓練ほどおあつらえ向きな機会はないのです。したがって、エゴイストにとっても、優れた研究への野心を持つかぎり、報告者の研究がいかにすればより良いものになるかを考えることが、結果的に最も合理的な選択ということになるのです。その意味では、つまみ食い者は、自分の置かれている状況認識を誤っているエゴイストか、優れた研究をするということとは異なる目標をもつエゴイストということになります。

ただ、ここまで述べてくると明らかなことだと思いますが、研究会において危うい態度で臨んでいるのは、つまみ食い者だけではなく、むしろ彼らは危うさをわかりやすく表現している典型例にすぎません。研究会に最も多いタイプの参加者である終始沈黙を守る者の一定部分もこの種の人びとであるといえるでしょう。その意味では、「不適切」なエゴイストは、研究者の中に広く浸透したあり方であるようにみえます。

私が大学院生の時分に、ある研究会で、当時すでに大学教員となっていたある中堅研究者の報告の席で、参加者からある本質的な問題点を指摘されて、思わず「あっ」と言ったきり絶句する現場を目撃したことがあります。その瞬間、その研究者が10年以上にわたって続けてきた研究が、全く失敗であったことが明らかになったわけですが、今から思うと、彼が関わってきたであろう研究会に、もっと「適切」なエゴイストがいれば、もっと早く研究を立て直すことができたのではないかと思います。

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